「肩がこってつらいんです」
鍼灸院で、いちばん多くいただくご相談のひとつです。
肩がつらいなら、肩に鍼をする。肩にお灸をする。
そう思っている方は、たぶん多いと思います。もちろん、肩そのものに施術することもあります。
でも、初めての方からはよくこう聞かれます。
「肩がこっているのに、なんで足に鍼をするんですか?」
今日はその理由を書きます。感覚の話ではなく、できるだけ事実の話として。

肩こりは、症状名ではなく入口です
同じ「肩こり」という言葉で来られても、伺っていくと中身はずいぶん違います。
・首から肩にかけて張っている
・デスクワークをした日の夕方に強くなる
・朝、起きた時点でもう重い
・肩だけでなく背中も張っている
・手足が冷えやすい
・食欲や胃腸の調子が揺れている
・眠りが浅い
ここで正直に書いておきたいことがあります。
私たちは、このうちのどれかを「あなたの肩こりの原因はこれです」と決めつけることはしません。冷えが肩こりを引き起こす、睡眠不足が肩こりの原因だ、と単純に言い切れるだけの根拠はないからです。
ただ、その人の体がいまどんな状態にあるかを知る手がかりにはなります。私たちが伺っているのは、原因の犯人探しではなく、体の現在地です。
鍼灸師がいちばん時間をかけているのは、刺す前です
東洋医学には四診という診察の枠組みがあります。
・望診 見る
・聞診 声や呼吸を聞く
・問診 尋ねる
・切診 触れる
このうち切診に、脈をみる脈診と、お腹に触れる腹診が含まれます。
腹診はもともと中国医学の主流だったわけではなく、江戸時代の日本の医師たちが経験を積み重ねて独自に発達させた診察法とされています。
日本の鍼灸や漢方がお腹に触れることを重んじるのは、そういう背景があります。
脈をみて、お腹に触れて、首や背中や手足の状態を確かめる。
ばらばらのことをしているように見えるかもしれませんが、目的はひとつです。
今日、この人のどこにお灸を据え、どこに鍼を刺すかを決めるためです。
同じ一本の鍼でも、打つ場所が変われば体は逆に動きます
ここが、この記事でいちばんお伝えしたいところです。
動物を対象にした研究で、こういう報告があります。
後肢、つまり脚への鍼刺激は、胃の動きを亢進させた。一方、お腹への鍼刺激は、胃の動きを抑制した。
同じ「鍼を刺す」という行為なのに、結果が逆になっています。
理由は、通る経路が違うからです。脚への刺激は、脳幹を経由する上脊髄性の体性‐内臓反射として働き、出ていく神経は迷走神経、つまり副交感神経です。
お腹への刺激は脊髄のなかで完結する分節性の反射として働き、出ていく神経は内臓神経、つまり交感神経になります。
行き先が違えば、内臓に届く指示も逆になるわけです。
ヒトを対象にした研究でも、お腹への鍼刺激が胃の電気活動を抑えたという報告があり、副交感神経を遮断する薬の影響を受けなかったことから、動物実験と同じ仕組みだろうと考えられています。
(出典:鍼灸師養成課程の教科書「はりきゅう理論」、および体性‐自律神経反射に関する一連の研究)
自律神経生理学を専門とする鈴木郁子・日本保健医療大学教授は、講演のなかでこう説明しています。鍼を刺す場所によって内臓に現れる効果が異なるのは、こうした反射が私たちの体にもともと備わっているからだ、と。
つまり「どこに刺すか」は、鍼の太さや本数と並ぶ調整項目ではありません。体の反応の向きそのものを決めてしまう条件です。
だから、場所を選ぶという行為そのものが、施術の中身になります。
痛みを抑える仕組みは、ひとつではありません
もうひとつ、知っておいていただくと腑に落ちやすい話があります。
体には、痛みを自分で抑える仕組みが備わっています。鍼灸の教科書では、それを働く範囲で3つに整理します。
・末梢性の鎮痛
刺激した場所に限って、痛みを感じにくくなる
・脊髄分節性の鎮痛
同じ脊髄の分節がカバーする範囲で、痛みを感じにくくなる
・全身性の鎮痛
全身で痛みを感じにくくなる
3つめの全身性の仕組みには、下行性痛覚抑制系と呼ばれる経路が関わります。脳から脊髄へ下りていく神経がセロトニンやノルアドレナリンを放出し、痛みの信号が脊髄で次の神経に受け渡されるところを止めてしまう。ほかにも、広汎性侵害抑制調節(DNIC)やストレス誘発鎮痛といった仕組みが知られています。
大事なのは、この3つめの層が、刺した場所と痛む場所が離れていても働き得るということです。
肩だけに鍼をするのは、この3つのうち、いちばん手前の層だけを使うということでもあります。悪いことではありません。ただ、使える引き出しは狭くなります。
では「遠くに鍼をほうが良い」のか。そうとも言えません
ここで都合のいい話だけを書くと、この記事は信用に値しないものになります。
慢性的に首がこる、首が痛むという36人を対象にした試験があります。同じ人に、遠隔部の経穴への鍼、首の局所のトリガーポイントへの刺鍼、そして偽のレーザーを、順番に受けてもらう二重盲検のクロスオーバー試験でした。
結果は、動きに伴う痛み(100mmのものさしで評価)が、遠隔部への鍼では11.2mm減少。局所への刺鍼では1.0mmの減少にとどまり、統計的な差は出ませんでした。首の可動域も、遠隔部への鍼のほうが改善が大きかったと報告されています。
(出典:Irnich D et al., Pain, 2002年)
ただし、これは36人に1回ずつ行った、直後の変化を見た試験です。「遠隔部のほうが常に優れている」と読むのは行き過ぎです。ここから言えるのは、離れた場所への刺鍼が、局所への刺鍼と同等かそれ以上の変化を生むことがある、というところまでです。
慢性の痛み全体についてはどうか。39の臨床試験、20,827人分の個票データを統合した解析があります。鍼は、偽の鍼と比べても、何もしない場合と比べても統計的に優っており、その効果は1年後も約15%の減弱にとどまったと報告されています。
一方で、効果の大きさは、何もしない場合との比較で約0.5標準偏差、偽の鍼との比較では約0.2標準偏差でした。
(出典:Vickers AJ et al., The Journal of Pain, 2018年)
0.2標準偏差というのは、決して万能を意味する数字ではありません。私たちがこの数字を隠さず書くのは、鍼灸を実際より大きく見せたくないからです。
肩こりで全身を診るのは、遠回りではなく、場所を決める工程です
ここまでを整理します。
・「肩こり」という言葉の中身は人によって違い、統計で見ればその総量も年々動いている
・体は「どこを刺激されたか」によって、反応の向きまで変える構造を持っている
・痛みを抑える仕組みには、局所で完結する層と、全身に及ぶ層がある
だから私たちは、肩を診ないのではありません。肩に刺すかどうかを決めるために、全身を診ています。
お腹に触れる。脈をみる。首や背中や手足の状態を確かめる。初めての方には遠回りに見えるかもしれないあの時間は、その人の体を知り、どこにお灸を据え、どこに鍼を刺すのかを決めるための工程です。
「肩がこっているから、肩だけを何とかしてほしい」
そう考えなくて大丈夫です。というより、そのままそう伝えていただいたうえで、体全体を見せてもらいます。
初めて鍼灸を受ける方へ、ふたつだけ
ひとつ。鍼灸で扱える範囲には限りがあります。腕や手のしびれ、力が入りにくい、じっとしていても痛む、発熱や急な体重の変化がある。こうした場合は、まず医療機関を受診されることをおすすめします。私たちが必要と判断したときは、こちらからそうお伝えします。
もうひとつ。感じ方には個人差があります。一度で軽くなる方もいれば、数回かけて少しずつ変わっていく方もいます。ここは正直に、一緒に確かめていく部分です。
最後に
私たちが「なぜ、この人の肩が今こっているのだろう」と考え続けるのは、肩こりが体の結果であって、始まりではないことが多いからです。
数千年かけて受け継がれてきた診かたと、この百年ほどで少しずつ分かってきた体の仕組み。まったく別の道から来たはずのこのふたつが、同じことを指しているように思えるときがあります。
体は、部分でできていない。
初めての方には、施術の前に「今日はどこをどう診て、なぜそこに刺すのか」を必ず言葉にしてお伝えしています。
気になることがあれば、施術の最中でも、その場で聞いてください。
「肩こりなのになんで足なんですか?」と。
諏訪市で完全予約制の鍼灸院をやっております。
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